

中尾哲彰回顧展
-創造力の冒険-
ご挨拶



開催にあたって
去る3月8日、
陶芸家・中尾哲彰は銀河を巡る永遠の冒険に旅立ちしました。
「お父さん帰ったら何したい?」
「焼き物作りたい。」
その答えは、旅立つ前日も変わりませんでした。
焼き物に捧げたその人生、そこまでには知られざる学者を目指す若き青年としての姿、そして、銀河釉の礎となった数々の膨大な焼き物がありました。
類稀なるその人生。
彼を作り上げた数々の作品とともに中尾哲彰の人生を巡る回顧展の一部をオンラインでも開催しようと思います。
中尾哲彰の目指した夢、そしてその想いを心に灯していただけるとこれほど嬉しいことはありません。
中尾哲彰の生涯
この動画は、葬儀の中で流したものです。
息子と娘たちによって作られたこの一本の動画には、中尾哲彰という人間の一生が詰まっています。

1. 旅の始まり、学者の卵として
「世の中で何が起こっているか知りたかった」

1952年、玉峰陶園を経営していた父・昌幸のもとに窯焚きの息子として生まれた。
「もう、いつもおばあちゃんが謝りに行ってた」
哲彰の妹がそう言うように、小さい頃の哲彰少年は、集団行動が苦手でよく喧嘩をしては母親が近所に謝まりに回っていたそう。幼少期は飛行機や機械などをいじるメカニックになりたかった。
彼が少年期を過ごしたのは1960年代。当時アメリカでは公民権運動やケネディ大統領暗殺があったり、日本でも学生運動があったりと世界が動乱していた。
「世界で何が起きているか知りたかった」
高校生ながら哲学書を読み込む日々だったが、高校の運動会では警察署に出向き警官服を借りて、学生運動のパロディを主導するほどに。


ここで一つの大きな出会いがあった。
「社会の矛盾について、舌鋒鋭く切り込み、追求しようとしていた。まるで求道者のように、次々と名のある大学の研究者に教えを求めていったが、満足できず、やっと慶應義塾大学商学部の石坂巌教授に出会い、教授のゼミに落ち着いた。」
友人の弔辞の言葉には、そう記されている。
恩師・石坂巌先生の推薦の言葉。
「中尾君はたんに陶芸家であるだけではありません。陶芸の美の追究者であると同時に、社会の共同生活のうちに人間的真実を認め、その実現化を日指している人物です。
たとえば5月中旬、佐賀の武雄で“21世紀を見つめて”というシンポジウムがひらかれました。中尾君はそこで「21世紀の社会と文化」のテーマでの基調報告者でした。もう一人の基調報告者、数名のパネラー、コーディネーターの人たちはすべて、各大学の先生方でした。つまり大学の教授たちと、まともに論じ合える識見と知識を、もちあわせているということです。
中尾君は今でも若いのですが、たいへんな読書家です。陶芸の仕事が終わってからの深夜から朝方にかけてが、読書の時間です。ウエーバーの主要な著作はすべて読み、マルクスの思想にも通じ、口を開けば、そのような人はもちろん、サルトルやヘーゲルなどを論じて、二晩ぐらい寝ないでも平気です。もっとも焼物の火をいれた時には、3日ぐらいは寝ないそうですが。」


2. 陶芸家としての始まり
知られざる前・銀河釉時代

「学問の世界が思い描いていたものとは違った。」
学者として世界を変えることを夢見ていたが、もはや、そこにあったのは就職予備校としての大学の姿だった。もうそこには心を満たすものはなかった。そして、実家に戻った。
「親父が無心に土と格闘している姿を見て」
こうして彼は、生きる道を陶芸の世界へと変えた。
当時、玉峰陶園は花器を作っていた。数十年勤めていた職人さんによると、高校生ぐらいから工場にろくろなどをしに邪魔に来てたらしい。
初めは、職人さんからろくろの手解きを受け、花器の流れを継承し、素朴な色合いの花瓶を作っていた。


作品名「聖」
日展に初出品、初入選した時の作品は「白磁」だった。土物から磁器の時代へ。作家としての道はここから始まった。
作品名「豊」
「青磁」
中国へも何度も渡り、歴史的に価値があると言われる釉薬の再現に取り組んだ。ありとあらゆる釉薬を調べ尽くし、彼の元へ釉薬の相談をしに来る陶芸家が絶えなかった。


作品名「暁光」
「辰砂」
陶芸において発色が困難な釉薬の一つ。これが可能になった時、他の陶芸家からこれで十分飯が食っていけると言われた。ただ、そこで歩みを止めなかった。
「数百年も昔の過去の中国で出来た焼き物を、今やって、なんの意味がある」
彼の求めるものはこの歴史の先、まだ見ぬ未来にあった。

3.総合としての銀河釉
「星空から見れば国境線なんて見えない」

32歳の時、突然網膜剥離が彼を襲う。
失明に近い状態で1年近く過ごした
美を追求する芸術家にとって、絶望的な病気だった。
「あなたはもう陶芸家として終わりね」
そう言われることさえあった。
失明するかもしれない、その絶望と不安の中、彼の脳裏に浮かんだのは暗闇を照らす星空をイメージだった。
「もし、もう一度ちゃんと見えるようになったら、星空のような焼き物を作って、同じように絶望の暗闇の中で苦しんでいる人々に、『元気になってよ』と希望の光を届けたい」
むしろそうした想いに、彼自身が救われたのだ。
共通の趣味が車だった、20代から中尾哲彰を知る焼き物仲間は語る。
「中尾さんに『改造した車、あっちにあるから』と言って、薄暗い倉庫の方に案内された。歩く途中ジャリジャリと音がして、こんなところに砂利があったっけ?と思っていたが、中尾さんが電気をつけた瞬間背筋が凍った。自分が今、床一面に敷き詰められた膨大なテストピースの上に立っていることに気がついたのだ。」


それは、釉薬のみの研究ではない。「中尾土物」そう名付けられた特注の土は、地元の土屋さんと共に研究し辿り着いた、銀河釉にふさわしいキャンバスだった。
玉峰窯には5基のガス窯がある。色ごとに使い分けられるその窯は、どれも銀河の結晶が出るように改造されている。
そして、そこにはもちろん哲学、社会科学を研究してきた彼の平和への願い、想いが込められている。
「星空から見れば国境なんて見えない」
ついに、その想いを体現する銀河釉という表現を得たとき、まさに中尾哲彰というこれまでの人生が1つの結晶として析出したのだ。「銀河釉」、それは総合としてあったのである。

作品名「遥なる長安」
「茜銀河」
それは、何度も色を重ねて窯に入れることでやっと出る、銀河釉の基本五色を超えた色。生前、「銀河のオデッセイ」と共に絶対に手放さずに大切にしていた作品。
さまざまな色が折り合い調和する景色とその形状は、かつての中国・唐のあらゆる異文化が行き交い平和だった国際都市・長安の平和の時代への憧憬が宿っている。

作品名「神々の聖地」
価値観の多様化と絶対的な価値基準を失った近現代、異なる価値の葛藤の中で、「神々の闘争」の中でいかに生きていくか。
そうした神々の共存への想いを、異なる宗教でありながら同じルーツを持つ一神教の誕生の地である砂漠、岩場の景色に寄せた。
sub_edited.jpg)
哲彰の父・昌幸の手記にはこうある。テストピースが五千を超えた頃、やっとそれらしきものが姿を現した。
「十数年に及ぶ研究の中で、
宇宙空間に広がる無数の星たちを思い起こさせる釉薬が生まれた時、私はこれを『銀河釉』と名付けました。」
ついに彼の代名詞となる釉薬が誕生した。
「なんで結晶釉に挑戦したの?」
「一番難しいからさ」
そう答えた父の言葉が今も脳裏に残っている。

作品名「銀河のオデッセイ」
これほどに大きな作品となると、一人で釉薬を掛けることすらできない。亡き親父と一緒に作った思い出の作品でもあった。
結婚する前、妻・知佳子が工場に遊びに行った時に、ちょうどこの作品を作っていた。何かアドバイスはないかと尋ねられ、「麦わら帽子が空からふわっと舞い落ちたような柔らかい曲線だといいんじゃない」
今や銀河釉を代表する作品となった「銀河のオデッセイ」だが、ここから新たな旅が始まった。

作品名「異教の友へ」
学問における彼の研究領域の一つは宗教社会学だった。
異なる宗教、ひいては価値観を持つ者同士がどうすれば争いから免れるか、そうした問題意識がずっと彼の中にあった。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーの著書は、学生時代からの相棒だった。
「どうすれば支配のない社会を実現できるか」

作品名「東洋的『無』」
「西洋に伍する芸術、思想を東洋からぶつけること」
彼の中にはそうしたもう一つのテーマがあった。
社会科学、哲学の探究の末、西洋の行き詰まりを予感していた彼は、東洋がもつ「寛容」の精神、そこに次なる平和への可能性を見出していた。
オリエントのブルー、
夜空のような夏銀河の濃い発色の作品群は、海外でも高く評価されてきた。
作品名「明日への神話」
「あらゆる情況が逼迫し、混沌の度を増す現代、銀河釉がこのような時代に差す、世界と未来への一条の光となることを願って」
かつて絶望の淵にいた本人が暗闇に差す光に救われたように、苦しんでいる人々にとって、そして難しい時代にとって希望の光となるように。
彼の願いにも似た想いは、今や作品を通して光を放ち続けている。


作品名「銀河」
「武器のない、国境のない世界」
どうすれば人類のこの夢のような社会を達成できるか。不可能に見えるこの未来を前に、彼は極めて前向きであった。
「大丈夫、人類の歴史はまだ400万年しかない。これからだ。」
100億年以上前に誕生した宇宙に比べれば。
まさに天文学的な壮大なスケールで人類の歴史を見ていた。

作品名「銀河のオデッセイ」
「『愛』と『自由』のやさしい共同体」
それが、中尾哲彰が夢見た世界だった。
その夢は、人類の未来に託された。
そう、彼の夢はこれからも人類の歴史と共に旅をする。

4.物語の続き
「これから一緒に見果てぬ夢をみよう」

「朝日を浴びて、ロクロ再開!
朝の光は綺麗だね。
お父ちゃんが紐付きねと言ってますが」
2022年1月12日の家族LINEには、妻・知佳子からの言葉とともに、この写真が送られていた。
酸素チューブをしながらでも焼き物を作り続ける。まさに最後まで、陶芸は彼にとっての天職だった。
「真っ直ぐになってるか見て」
珈琲碗皿の取っ手をつける時にそう頼まれることが増えた。彼の目は再び視界を歪めていた。
「もうこの時にはお父さんはよく見えてんなかったんだよ。」
まだ焼かれていない、作り残されたままの珈琲碗皿の生地を見つめながらこぼれた妻の言葉。晩年も、文字通り命を削りながら作っていた。


「茶碗に始まって茶盌に終わる」
もう大作は作れない。
肉体が弱り大きな作品が作れなくなる中、彼が作り続けたのは茶盌だった。そしてこれは、彼にとって決して後退ではなかった。今になって誕生する見たことのない色の銀河釉の数々、もう一度釉薬にその面白さと新たな可能性を見出していったのだ。そうした色の多くは、今だに名前さえつけられていない。
最後の珈琲碗皿。
珈琲と本を欠かすことのない父が辿り着いた、この形。銀河釉の代名詞である珈琲碗皿。
陶器市が終わった6月、窯から出てきたのは流氷を思わせるような冬銀河だった。それが面白くて立て続けにもう一度窯を入れた。そして、それが最後となった。


銀河を受け継ぐことを夢見て、
一人の青年が空を超えてオランダからやって来た。
ステン・ヴァンダーレン
当時まだ、娘はオランダ、息子は東京にいる頃。
全く日本語を話せなかった青年と、哲彰そして妻・知佳子との不思議な修行生活が始まった。
日本に来て三日、
まだ一度も、工場で並んで教えてもらう前に、中尾哲彰は倒れた。
車椅子姿になった。
それでも、託し続け、受け取り続けた。
焼き上がった焼き物を片手に、そのやりとりは病室でも決して止まることはなかった。


「お父さんを超えろ」
そうやって、息子・真徳は育てられた。
今では、大学院に通いながら窯を焚く日々。
まだ入院していた時、父の書斎を整理していると一枚の紙が出てきた。24歳の中尾哲彰が書いた機関紙『慶應プロジェクト』の文章だった。
「その内容に、強い衝撃を受けました。自分が大学院で研究しようとしているテーマと全く一緒だったんです。」
同じ血が通っていることを知った瞬間だった。
小さい頃はよく工場に手伝いに行っていた。
ロクロの音を聞きながら、私は焼き物に敷くハマを叩いて、社会のこと、哲学のことについての話を聞くのが好きだった。それが二人にとって大切な時間だった。
今はその時の景色、昔手伝っていた時の記憶を頼りに、銀河釉と格闘する日々。


弱っていく肉体、その未来を見越し、若かりし頃に作り残していた大作たち。それは今も、玉峰窯の皿板の上に佇んでいる。
いつか、次の世代が銀河釉を完全に焼けるようになる日まで。
その時にはどんな姿となって日の目を見るのだろうか。
きっとその日まで、この窯を見守っていることだろう。
「中尾家の展示室を思い出します。そこには、美しい焼き物の作品が並び、哲学の本が積まれ、使い込まれた心地よい椅子が置かれていました。柔らかな光が差し込むその部屋で、私たちは銀河釉のコーヒーカップを手にしながら座っていました。」
終わらない夢の続き、これから一緒に旅をしよう。

to be continued...


5.今、無数の星々となって
その光は今もどこかで
