プロフィール

1952年

佐賀県生まれ 慶応義塾大学文学部哲学科中退

1981年

日本現代工芸美術家協会九州会に参加し陶芸に志す

1982年

日本現代工芸美術展初出品にて入選
 - 日本美術展覧会(日展)初出品にて入選

1992年

北京中央工芸美術学院研究室収蔵
 - 杭州南宗官窯博物館収蔵

1994年

デンバー美術館収蔵

1995年

国際美術大賞イタリー展’95 国際美術奨励賞

1997年

日本スペイン文化交流巡回美術展
 - セビリア市文化教育功労賞

1999年

日蘭交流400周年記念「日本の美術展」
 - アートユニオンオランダ賞

2000年

ミレニアム記念芸術アカデミー・グローバル賞

2001年

A.M.S.Cスペイン芸術賞
 - 第5回モナコ日本文化フェスティバル
 - モナコ公国名誉賞

2002年

スペイン国立プラド美術館財団会員
 - アルバ・ガッタ・ローマ芸術家協会名誉会員

2003年

「フランス・パリ・美の革命展INルーブル」
 - グランプリ「プリ・デ・リオン」
 - 特別賞「トリコロール芸術平和賞」
 - ルーブル美術館に永久刻印


第2回トルコ日本現代芸術世界展 2003
 - オスマン・トルコ芸術勲章

フィレンツェ栄光のネオ・ルネサンス展
 - コスタンツァ・デ・メディチ芸術褒賞

ヴァチカン聖なる創造展

2004年

「カンヌ国際芸術祭」
 - コートダジュール国際芸術賞

オゾン夏の大茶会に於て、遠州茶道宗家十三世家元、不傳庵小堀宗実により銀河釉茶道具を家元好として紹介される

2005年

万博博覧会愛地球博の会場にて
 - 小堀宗実家元プラチナ茶室と共に銀河釉茶道具を紹介される

新宿京王百貨店にて初個展

AΩ選抜協議会によりAUL
(世界に誇る、歴史に残すべき芸術家)に認定される

アジアにおける日本美術展優秀賞受賞

2006年

北京国際芸術博覧会(組織委員会よりの招待出品)

2007年

モスクワ国際芸術博覧会
(ロシア国立芸術アカデミー美術館
  ロシア国立芸術アカデミーよりの招待出品)

2008年

クイーンヴィクトリアギャラリー(ロンドン)にて海外初個展
Heart Art BARCELONA~日西芸術交流祭~バルセロナ陶磁芸術財団賞受賞
Bonhams(ロンドン)のオークションに初出品

2010年

タイ王室ソムサワリ王女芸術賜杯受賞

日本ハンガリー芸術交流祭
(仏ルーブル美術館長の推薦による出品)
ハンガリー文化芸術名誉作家賞受賞

福岡市美術館にて「中尾哲彰作陶展」開催

中尾哲彰 作陶展

2011年

クリスティーズオークション
「Japanese Art & Design Including Arts of the Samurai」に出品


インタビュー記事

月刊とっとっと 2006年11月号 vol.28 P12〜P13より

 優しい若葉をイメージさせる「春銀河」、 濃い夏の夜空に星をちりばめたような「夏銀河」、 秋の装いを感じる「秋銀河」、雪や霜の白や銀が織り成す「冬銀河」、 濃い緑色や銀、茶など多彩な色合いの「睦月銀河」。 5つの色合いは、無数の星が輝く宇宙の広がりを連想させる。
他ではまず見ることのない、この煌きこそが「銀河釉」(ぎんがゆう)の魅力だ。

学者から陶芸家へ「私は、学者になりたかったんです。」

 陶芸家・中尾哲彰さんの作品には、大学時代に哲学を学んだ影響で「芸術を通していかに人類にメッセージを託すか」というテーマがある。  昭和27年、武雄市山内町に生まれた中尾さんは、哲学や社会学の学者を志した。「自分たちの年代は、学生運動が盛んな時代でした。当時、わたしは学者になりたいと思っていました。いざ、大学に通うと自分が描いていた大学や学者のイメージと現実の姿が違っていたんです。自分がやりたいものとのギャップを感じて悩んでいた頃、焼き物を作るおやじとか職人さんの無心に土と格闘する姿を見て、陶芸家をめざそうと決心しました。それから、大学を辞め家業の焼き物づくりを始めました。」 「現在でも、哲学や社会学は当時の大学の教授やゼミの仲間と続けています。」という風貌からは、焼き物職人というより大学教授のような印象がある。

「天体に輝く銀河」のような作品をつくりたい

 「天体に輝く銀河」のような作品を作りたい。そんな思いから、「銀河釉」は誕生した。「銀河釉」を開発したきっかけは22年前。網膜はく離という病気になったときのことです。
何も見えずに病室のベッドで一年ほど過ごしました。精神的にも辛く、苦しかったですね。このまま焼き物を続けることができなくなるのでは、という不安もありました。そんなある日、心の中に『夜空の星。天体に輝く銀河』が浮かんできたんです。不思議なことに、その星に救われる思いがしました。それで、銀河のような作品で、自分と同じように辛い思いをしている人たちに元気を与えることができるのではないかと考えました。
私はむしろその思いに救われたのです。

銀河釉の誕生

 「銀河釉」とは、釉薬のなかに含まれる様々な金属が1200度~1250度という高熱の窯の中で結晶化したもの。 耀変結晶釉(ようへんけっしょうゆう)で、中尾さん自ら「銀河釉」と名づけた。  「網膜はく離の症状が少しずつ回復し、銀河釉の開発のために世界中の文献を読みました。そして、何毎回も釉薬の調合を行ない、データーをとり研究を重ねました。それは、もう化学実験ですね。釉薬の研究には5年。商品化できるようになって15年ほどになります。窯の温度も重要で、自分の思い通りの色を出すのは難しいですね。」粘り強い研究から生み出された「銀河釉」には、ただただ驚嘆するしかない。  「銀河釉は宝石と同じなんです。たとえばルビーの赤とエメラルドのグリーンは色が違いますよね。金属分子の結合状態が違うんです。結合のさせ方で色が違ってきます。そのために、窯もそれぞれに必要になるんです。」  玉峰窯には、5基の窯があり色ごとに稼動させているというのもうなずける。  中尾さんは、「私のなかには、芸術家と科学者の両方の姿がある。」という。窯は、不確定的要素が多い。そのため、思い通りの色を出すのは難しい。しかし、そこには妥協はない。それすらも「コントロールしたい」と科学者の顔も覗かせる。  美しく結晶化した作品は、品格があり宝石のようだ。しかし、その美しさには科学的な知識だけでなく、自然の変化を読み取る技も必要とされる。納得できる作品づくりに格闘する日々はこれからも続く。

人類史に残るメッセージを伝えたい

 日本画家・千住博氏のインタビューのなかで「ニューヨーク在住の芸術家は絶望の淵にある」という話がありました。 千住氏は、「9・11同時多発テロ以降のニューヨークにおいて、芸術家はテロを起こした側、テロを受けた側の人々に、人間としての思いやりや癒しを伝えなければならないという使命感がない」というのです。「テロ後の傷ついた人々の心を癒し、勇気を与えることができたのは、20世紀前半の例えばセザンヌやガウディらの作品であり、そしてまた歴史に残る芸術。つまり、芸術とは国境、宗教、思想の壁を越えて、人に勇気や希望を与えたり、傷ついた心を癒したりするメッセージがある』という内容でした。私も同感です。そういう意味でも、『愛と自由』への思いを銀河釉に込めてメッセージを伝える意味は大きいと思います。」   そう熱く語る中尾さんは、「焼き物という芸術においても、他の人にできなかった新しい技法の意味は大きいと思う。人類史に残るメッセージを伝えることが、自分の姿だと思っています。」と続けた。

世界を目指して…

 「美」は国境を越える 中尾さんのプロフィールをみると、海外での受賞歴に舌を巻く。
 中国、イタリア、スペイン、フランスとずらりと受賞歴が並ぶ。 海外へ目を向けたのは、10数年前。そのきっかけとなったのは、中国の北京芸大の張教授との出会いがあった。「教授は私の作品を高く評価されました。しかし、その頃は国内の公募展でもうまくいかない。作品を売ろうと思っても、売れなかったんです。私は、教授にそのことを話しました。教授は、『日本はまだまだ文化の厚みがない。芸術先進国のヨーロッパに出品しなさい。世界を目指して頑張れば、きっと世界のトップクラスに入るだろう』という助言をされました。」  中尾さんは、その言葉に背中を押され、ヨーロッパを中心に公募展に出品。2003年には、「フランス・パリ・美の革命展INルーブル」の陶芸部門でグランプリにあたるプリ・デ・リオン(ライオンの門賞)と同時に平和のメッセージが高いとして、トリコロール芸術平和賞に輝いた。「『愛と自由』というメッセージが国境を越えて伝わり、これまで取り組んできたことが間違ってなかったと確信できました。」とそのときの喜びを語る。

茶道家元との出会い

 「銀河釉」の茶道具を手に取った人は、まず驚くだろう。とにかく軽いからだ。中尾さんは、「水指などは、水を入れて使うもの。水が入ったときの重量を考え、人が持つことを前提につくっています。」と、焼き物としての美しさだけではなく、道具として使い手に対する心配りにも研ぎ澄まされた美学がある。「茶道という伝統の世界において、新しい風を吹かせたかったんです。」中尾さんは、「茶道とは、『一期一会』。美しいものを、美しいと感じる心は、芸術も茶道も同じだ。と考えている。  遠州流の茶道家元と出会ったのは、茶道具づくりに試行錯誤をしていた頃。「5年前、ある方の紹介で遠州流の家元とお会いする機会がありました。ご紹介いただいた方からは、『家元は人間性と焼き物の両方をみられるので、認められなければお茶道具は諦めろ』と言われました。それから、家元にいろいろご指導いただいています。」  現在では、遠州流の茶会をはじめ、2005年「愛・地球博」会場の「プラチナの茶室で銀河釉が使われるなど話題となった。家元からは、「新しいものは時間が経たないと評価が出ないと思うが、頑張れば100年後、200年後、歴史に残るものができるから」と激励され、今後も茶道具作りにも力を注ぎたいと意欲的だ。


インタビュー記事

世論時報 (H22.12月号、H23.1月号) より

銀河釉の温かい光を世界に届けたい
陶芸家・中尾哲彰

「銀河釉」の開発
ひたすらの実験と検証

今まで歴史的にあまり使っていない金属を使ってみると面白いことになるかもしれないと考えて、タングステンやモリブデンを釉薬(ゆうやく)の中に入れてもみました。約1%から5%くらいの範囲で入れると、大体、結果が見えるんです。多くは入れません。普通は、銅であれば、織部とか青磁とか作る場合で0~15%くらい。多くてもそれくらいなんです。窯変天目になると、結構使って30%、場合によっては35%入れるんですね。飽和状態にして作っていくんです。私は、それをやろうという気持ちは無かった。今までの伝統的な焼物の色を出そうとは思わなかった。

ついこの前までは、東工大教授の素木洋一氏が日本の焼物の研究で第一人者でした。その人が書いた「釉とその顔料」(技報堂1968年刊)が一番良い本だと思います。私はその本をほぼ丸暗記しました。焼物に関する金属の化学反応については、最近もっとすごい本が出ているかもしれませんが、英語とドイツ語の文献も多く集めて参考にして、後は、実験と検証です。そうして、今までに無かったものが段々と出来てきたのです。

色のヒントは色々あります。自分としては、まだまだもがいている段階です。賞としては、ルーブル美術館とかプラド美術館からとても高い評価を頂いていますが、もっといろんなものに挑戦したいと思っています。

日本人のノーベル賞学者がインタビューに答えて、昔は机一つあれば賞が取れたけれど、今は高価な研究装置と研究スタッフがいないとだめです、と言っていました。私の場合も新しいものを作り出すためには従来の設備では不都合なんです。窯も五基持っていて、全部自分で改造しました。それぞれの窯には特徴があり、性格が違うんです。

車も自分の好みで足回りを変えて、改造したりチューニングしますね。私も自分の好みを出せるように調整しました。この色はこの窯をこういうふうに使ってと考えます。

窯の中の高さ1m内の温度分布差を如何にしてゼロにしていくか、上の方が1250℃で下の方が1200℃と、50℃の差が出れば、化学反応の速度が異なり、色が全然違って来ます。私の場合は、結晶化が1200℃位から始まり、温度が少し違うと、色が出ません。銀河釉は普通の釉薬の場合とは違います。天目や青磁は炉内で面の温度管理をすればいいけれど、点の温度管理と温度変化の管理が必要です。だから、自分が焼きたいものをイメージしても、素焼きまでは良いですが、実際の窯の温度を考えると、冬の間には焼けません。やはり三月くらいまでは動けません。

社会学者への道から転身
網膜剥離がきっかけになって

大学に自分の求めていたものはなかったのですよ。だから大学を止めました。親父は焼物をやっていて、若い頃十年くらい手伝ったんです。或る程度の技術も身に付いて、物を作り出す実感も味わっていました。

若いころにベトナム戦争があって、それと格闘していました。キルケゴールは、ニーチェは、こう言ったとか聞いても私には通じません。それは、十九世紀の人間が感じたことで、その考えが今の私共にどう関係するのかが分からなければ意味が無い。学問ってそうでしょ。私の生き方と結び付いていて意味があるわけですから。

そんなふうに私が暴れていた時に、自分の研究室に来いと声を掛けてくれた商学部の先生がいて、中尾君が求めるものを教えることは出来ないかもしれないが、一緒に考えることは出来るよ、何やってもいいからおいでよ、と言われて、その先生は五年前に亡くなったんですが、亡くなる前まで親子以上と言えるくらいに可愛がって頂きましたね。泊まりに来いと言われて行きましたし、普通の師弟関係を超えた関係でした。本来の教え子ではないんですがね、嬉しかったですね。

焼物を作りながら、片方で、そういう勉強もしながら、それがあったからめげなかったですね。

学問って終わりがないですからね。マックス・ウェーバー(1864年~1920年)を一所懸命に勉強し、研究しました。

学問と焼物というまったくの別物が、心の中で精神的にぶつかっていたんだと思います。自分の生きる方向について正反対のものが互いに葛藤し、分裂していたのでしょうね。それが、眼の病気として現われてきたのではないでしょうか。人間の心と体は一つですからね。

絶望の淵に沈んで
脳裏に浮かんだ星空のイメージ

今は、生きていることがとても楽しいんですが、三十二歳の時に、網膜剥離になって、仕事ができなくなり、すべて中断せざるを得なくなりました。

ほとんど失明状態で、何も見えませんでした。半年くらいはほぼ地獄でした。もうどうしたら良いのか、凄い心の葛藤がありましてね。それで、もう死んだほうがよいのかなと、絶望の中で冷たくなっていました。

半年くらい何もできなくて、お手洗いには行けますけど、急にめくらになると、時間の感覚もなくなって、それが私にとって一番の苦痛でしたね。時々、物音がしたり、人の話し声が聞こえたりすると、今は昼か、と分かる。自分で食事も作れません。家族が支えてくれました。凄く辛かったですね。

それで、しばらく経った頃に、夢というのですか、脳裏に星空のイメージが浮かんだのです。

「アッ、もし自分が仕事に復帰できたら、星空みたいな釉薬を作って、苦しんでいる人、悩んでいる人、困っている人に、何か明るいメッセージを、元気になって下さいよ」と伝えたい!、と思ったんです。

段々とその気持ちが強くなって、それが自分の使命だと思えるようになって来たんです。それは、何か以前から持っていたのではないかと、思います。以前からそういうものを探していたのは事実です。

佐賀医科大学で診断を受けてみたら、治るかどうかわからないと。治らないにしても、自分の納得できるお医者さんにかかりたいと思いました。

慶応の医学部に何とかしてくれと連絡を入れたら、眼についての良い医者はいないと言われて、ある人がいろいろと当たってくれて、九州に二人だけ直せる人がいる、と。自分で好きな方の先生を選んで良いと。それで、自宅から距離的に近い先生を紹介してもらいました。

お陰様で、手術して、普通の生活が出来るくらいまでに回復することができました。

収入の無い十年余を支えてくれた
厳しかった陶芸家の父

日本も景気が悪くなり、新しい焼物をぼちぼちと作れるようになっても、売れない。売る場もない。大学の先輩が或る百貨店の課長だったので、どうにかしてくれと頼んで、会場を設定してもらって、一回目は応援してくれましたけど、二回目はもうお付き合いしてくれません。収入は無いわけで、それが十年以上続きましたね。

しかし、親父(おやじ)が私をわかってくれて、支えてくれました。士官学校出身で、教官をしていましたから、私もそれと同じやり方で教育されました。滅茶苦茶厳しかったです。だから、高校までは、音楽とか図画とかは点数悪かったです。私にとって反面教師の親父でした。でも、私が眼を悪くした時、親父の態度が変わりました。息子の思いを支えようとしてくれたのです。

銀河釉の開発は、最初、何も解りませんでした。幸運なことに、親父は日本碍子の研究室に何年か居たんです。それが、家屋敷を断絶できないから、帰って来いと言われて実家に戻った。親父は、基本的な化学を勉強していて、当時は、窯業試験所から聞きに来るくらいの知識を持っていました。

それで、解らない時は、親父に聞くと、助言してくれました。これをやってみて性質を調べたらどうだ、等と。そんなことから、一つ一つ焼物の技術を身に付けましたが、焼物の歴史とか、釉薬とか、土の勉強をほとんどしていませんでした。作ったものが只売れれば良いという考えでしたね。

土は色々な土を混ぜて使います。唐津焼きみたいなザラザラした、ちょつと色の付いた土を使うと、全体が暗くなって色は死ぬんです。これではダメだということで、有田の磁器の土を使うと、アイスクリームみたいに質感が無くなるんですね。

優しい光、あったかい光、人を包み込むような光、そういう光が感じられるものを作りたいと思っていたんです。元気を無くしている人が明日は元気になるような、辛い人の心が和らぐような、そういう光を得るために、工夫しました。やはり、明るい光じゃないと駄目なんです。そんな光を感じて涙を流して喜んでくれる人に会うと、ほんとに嬉しいです。土は土で、ものすごくテストを重ねました。化学の他に、一般教養も無かったので、それを補うのが大変でした。さまざまな事を学ぶ内に、段々と目標が見えて来ました。

独自のものを作り出して行く努力
自分をコントロールしてこそ

美術関係の仕事をしている先輩に、私の焼物をお土産に渡していたら、物々交換をしようということになって、英語の文献を探してくれて、私が探せない文献をアメリカで見つけて送ってくれました。有難かったですね。

私の陶器はあったかい光なんですよ。眼を悪くしてから取り組んだので、金銭欲とか名誉欲とか地位欲とかそんなものが不思議なくらいきれいさっぱり無くなりました。

ただ、家族が困るようなことだけはしたくありません。子供が学校に行けないとか、そんなことにはしたくない。下の子が小学生の時は野球と少林寺拳法をやって、中学一年生の時に少林寺拳法をやりたいと言ったから、高校までやるならやっていいと言いました。黒帯も取って、今年の夏に各県から一位二位の二校が出る全国大会にも出場しました。

その子が最近、お父さんの後を継いで陶器をやりたいと言うんです。それで、お父さんはただでは教えないぞ、と言いました。お父さんは、おじいちゃんの陶器を超えただろう、だから、おまえも私を超えて行かないと駄目だ、と言っているんです。

よく、柿右衛門が何代続いたとか言いますが、発展的に続いているのではないです。ミケランジェロ十五代目とか、ベートーベン八代目とか、あり得ませんよね。諸葛孔明五十八代の子孫は生きているけど、社会が人物を認めているわけではないです。

家元制度は日本だけなんです。私の技術は私のものであって子供のものではないんです。金儲けの道具ではないです。私が世界に伝えるために作った色であって、個展を開くと、弟子にしてくれ、お金を払ってもいいから弟子に入れてくれと人が来ますが、最初の五年十年は、私の眼が届く間は努力するでしょうが、人間は必ず堕落します。自分は自分でコントロール出来ますが、他人をコントロール出来ません。だから、弟子は取りません。子供にも同じことを言っています。

私の中にそういう血が流れているんでしょうね。中学校の時もまともに勉強しなかったし、学校の運動場で一人で運動したりして先生から怒られたし、自分の中には、人と同じ事をしたくないという処が先天的にあるんですね。大学の時にそれが爆発して、教授と大喧嘩もしたし。

第二の開国に直面している日本
絶対的な孤独からの脱出を

今の日本は第二の開国の時代だと思います。第一の開国は明治維新です。第二の開国が始まったばかりだと思います。日本の社会構造は、十二世紀前後の鎌倉時代に家族制度などが少しづつ固まりだして、多少の変化もあって今日まで続いて来て、明治時代にはそれらをうまく利用しながら天皇制が出て来て、敗戦の時に無くならなかった。家族制度が生き返り、会社もファミリーとして残って来たのです。

年功序列は、或る意味ではファミリーですよ。グローバル化とか言っても。ヨーロッパは、キリスト教もイスラム教もそうですが、宗教の世界では、人間は神とつながっていますから、絶対的な孤独というのは無いんですよ。ところが、最近NHKが「無縁社会」と言い出しました。日本の社会は村社会とか、地縁血縁でつながっていましたから、それが切れると、絶対的な孤独なのですよ。

その絶対的な孤独が自殺の増加に繋がっています。絶対的な孤独の人をどうにかしたい。そういう人をどうやって同じ人間として、仲間だよというネットワークに繋いで行くか、それが今の社会の課題です。

私の場合は、そういう孤独な人に私の作品を届けたい。その作品の明るい光を。

かつて、マルクスは人々の疎外感を言いました。資本家も労働者も疎外感に落ち込む、と。このまま行くと危ない社会になって行くと思うんです。歴史的に今まで経験したことの無いことが起こって来ます。

文化の多様化と共存が大切です。私は国境なき医師団の職人版を作りたいです。庶民の日常生活を手作りの技術で直ぐに支える集団として世界で動くのです。昔、ドイツにバウハウスがありましたね。ああいうものを作りたいんです。掘立小屋でいいから技術を教える所を作りたい。研究する機関であり、同時に人材育成をして、生産もする機関。そうしたら、人類が蘇(よみがえ)るんではないか。

八十年代中国にて、出資者を探して交渉し、金は出すから計画書を作ってくれ、と言われたけれど、私は病気して動けなくなった。その悔しさがあるんです。

ウェーバーを学んで現実社会を見る
人の心を理解していく

まず、経済的な問題を解決してやれば、人は文化を作ります。そうして、それぞれの文化が共存する。文化の多元性が可能になって来ます。最近、資本主義経済の問題点が分かってきました。このまま行けば文化の単一化が進行し、間違いなく滅亡に繋がります。だから、新しい文化を育てなくてはいけない。

将来、中国に資本主義経済が移入されるようなことがあったら、歴史上かつてなかった繁栄を見るだろうというウェーバーの予測があったのです。それが頭の中にあったから、近い将来の読みもあって、今も悔しさが残ります。

ウェーバーは、人間社会が発展していくと、心がやられて行く。だからこそ、人の心を理解する社会学が必要になると言っています。私はウェーバーと十年間格闘しました。研究していることと現実の社会とどう関わっているかを見ないと、学問する意味がありません。葉っぱは見えても、木を見ていない、木は見えていても、木が育っている山を見ていない、ということになっては役に立たない。

日本は、これからもっと酷くなるのが心配です。若い人や子供たちに旺盛な意欲が低下しています。社会の変化は速いです。アッという間ですよ。これからは、外国人が多く入って来ます。そうすると、外国の文化を応用していくほど心が豊かではないですから、昔風な右翼的な人が増えるのではないか。とすると、日本はこれからが大変です。これから日本は、落ちるにしても急激に落ちてほしくない。せめて、ゆっくりと落ちて行くようにしたいです。

銀河釉に込めた「愛と自由のやさしい共同体」への願いが少しでも社会へ届く事を願っています。

▼世論時報社ホームページ
http://www.seronjihou.co.jp/seron1101.html